「ちょっと待てよ」
瓜沢は佳山が入ろうとするところを止めた。彼女が例の飼育係となにか話し合っていたからだった。実際は話し合いというより口論に近かった。二人はそのまま仕方なく、外から様子を見ることにした。
口論はしばらく続いた。
驚いたのはその後だった。ちょっと間があいたなと思ったら、彼女は側に置いてあるケースから蝶の幼虫を取り出すとそれを口の中へ入れてしまった。その瞬間、飼育係は彼女の頬をひっぱたき彼女の口から緑色のものが飛び出した。見ていた二人はとても信じられなかった。彼女は怒っているような泣いているような顔をして、こちらに走ってきて瓜沢にぶつかって外へ飛び出て行った。
瓜沢は佳山に一瞥すると、その跡を追いかけて行った。佳山は男女の喧嘩でこんなに激しいのはテレビドラマ以外では見たことがないと思った。だけど、今見たものをたんなる喧嘩だと決め付けられそうもなかった。佳山は思わず温室の中へ入っていった。飼育係は佳山に気付きこちらを見た・・・が何も言わなかった。
彼は動かされた蝶の幼虫が入ったケースを冷静に元の場所に戻すと、端に置いてあるものから順番に、食草を坦々と与えていった。その目は、母乳を与える母親のような目をしていた。赤子にとっては神に値するかもしれないが、そういう母親の雰囲気は周りにいる赤の他人から見るとエゴイストの固まりのようで、佳山は嫌だった。
昔、近所の仲良しの子供とよく遊んだことを思い出した。その子の、若くて魅力的
なお母さんも自分と遊んでくれた。ほのかな憧れや愛情まで感じたが、生まれたばか
りの赤ん坊が空腹で泣き出すと。他人がいる前で豊満な乳房を出して赤ん坊に含ませ
た。そんなとき子供なりにしらけた気分になった。侮辱に近い思いをした。その母親
の目もそうだった。結局は自分の子だけがかわいいのだと、幼いころの佳山は思った
ことがあった。
男は黙って食草を与え続けていた。一番手前のケースを見ると、二、三十個もある
蝶の蛹が、ちょうど金属の輪に縦に挟まるように合理的かつ無造作に挿してあった。
佳山には小さな赤ん坊が金属の輪に挿してあるように思えた。
瓜沢と、飛び出していった彼女はオランウータン舎の前にいた。彼女の名前は中野
裕子といった。
「じゃあ、困らせようとしてあんなことしたんだ?」
「だってとっさに逆上しちゃって、他に思いつかなかったのだもの」
「よく芋虫なんか食おうとしたね」
「あたしだって食べようなんて思わなかったわよ。ただ口に入れてみただけ」
「それにしたって普通、気持ち悪いと思うけど」
「あたしも口に入れたのは初めてだったけど、芋虫ぐらい気持ち悪がっていたら、昆虫の世話なんてできないわよ」
オランウータンが近寄って来た。檻はなかったが、客との間に幅のあるかなり深い
堀があってそれ以上近付けなかった。
「あいつと付き合ってんだろ。別れるのか?」
「分からないわ。ただ最近あやしい様子なのもあって、わざと彼の職場でアルバイト
しようと思って頼んだのよ。彼も開き直ってアルバイトするの断らなかったけど、変な電話がここの職場までかかってきたの」
彼女がそのことについて問い詰めると、彼はさらに開き直るので腹が立つのといたたまれなさとで、今回の行動に出たというのだった。
瓜沢は中野裕子の強い性格を知ってくると少しばかり気がひるんだ。が、思わぬこ
とで彼女と近くなることができて内心喜んでいた。
オランウータンがぎりぎりまで近付いてきて手をたたき、手の平をこちらに差し出
しておねだりのポーズをとって見せた。彼女はオランウータンに向かって、「ゴメン
ネー。何もないのよー」と両手を開いて少しおどけて見せた。今話していることとうらはらな屈託のない笑顔だった。少し茶色い肩ほどの髪がゆれ、陽光がその中を透って光っていた。
オランウータンは何度かおねだりをしたが、何もくれないのを察したか、少し下がって途方に暮れていた。
「だれがあんなこと教えるのかねぇ?」
瓜沢はオランウータンを指しながら言った。
「ここに来た人が“ちょーだい”をさせて餌をやっちゃってるんじゃないの?」
「餌をやるなって書いてあるのに、みんなやるんだよな」
「自分の子供が喜べば、なんでもするのよ」
オランウータンは空を見ていた。
「オランウータンてさ、だれが入ってんかな?」
「入ってるって?オランウータンはオランウータンでしょ」
「いや、あの動きはだれか入っている。でなきゃ、あんな人間のような風情が出るわけは ない。見てみな、あの顔。人生が滲み出てる」
中野裕子はにこやかに笑っていた。
「よく見てみな。背中のところにジッパーがあるだろう」
「あってもおかしくないような毛並みよね」
「閉園の時間になると、そこからお疲れさんって言いながら、きっと中からだれかが出てくるんだよ」
雲が流れていた。オランウータンは聞いていないふりをしていた。
陽が傾き始めていた。光が昆虫園の総ガラス張りの屋根や壁を通って、全体がスカーレットの発光体と化し、周りの樹木の緑と呼応していた。
瓜沢良平と佳山悠は、ならんで鉄筋を溶接していた。形ができた岩は、ほぼ色を塗り尽くされていた。色の仕上げは、じゅんパパ石原がするので、それ以外の者は、新しい岩を作るために溶接や形が出来上がった鉄筋にラスという金網を張る作業にあたった。もちろん佳山は溶接は初めてだった。さっき溶接の仕方を教わったばかりだった。重要な見せ場
になるであろう岩の骨格は郷原と金沢がやっていて、あまり影響のないところの岩を瓜沢たちは任された。瓜沢は一番主になる十ミリの鉄筋で、佳山はその鉄筋と鉄筋の間を補強するように五ミリの鉄筋で溶接するように言われていた。離れたところから郷原の声が聞こえた。
「おーい。直接火花を見るなよ!」
瓜沢も佳山に言った。
「お前、サングラスしてても火花から焦点ずらしたほうがいいぞ。溶接する前に見ておいて、ここだなっと、あたりを付けたら、なるべく見ないでやった方がいいってよ。とにかく紫外線で眼底やられちゃうからな。ある日、朝起きると目の前が白くしか見えなくなるってよ」
「本当かよ」
4に、つづく…
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